NICおーっ!とテック物語【第6話】昭和にワープ!NIC創業時を振り返る
公開日時:2014/01/28
前号までのお話
わずか数種類というラインナップでスタートしたアルファフレーム。
コンベア、八角アルミフレームといった新製品を次々と世に送り出し、1996年前半には、800を超えるバリエーションを持つことになりました。
さらにはアジア・欧州・アメリカへ進出。日本のものづくりの底力を 世界へと広げていったのです。
躍進続くNICを支えてきたもの。それは創業時から培われて来た「ものづくりの心」でした。
今回は、皆さんと一緒に「時間旅行」に出かけたいと思います。
一気に昭和初期にワープして、NICの創業時の様子をお話しいたしましょう。
NICオートテックの前身『西川鑢(やすり)製作所』誕生
NICオートテックの前身である『西川鑢(やすり)製作所』が誕生したのは、昭和2(1927)年4月のこと。
やすりの製造と加工を生業に、富山県不二越町に設立されました。
当時の日本は、工場の機械装置をはじめ乗り物、橋、道路関係など、その ほとんどが鉄鋼で作られていたため、やすりは鉄工所では必要不可欠な工具でした。
創業者は現社長の祖父、建造。日本ではじめて焼き入れ鋼テストピース硬度試験ヤスリを開発し、ものづくり界へ大いに貢献した人物でありました。
その高い技術が評価され、西川鑢製作所は海軍の軍需指定工場になるのです。
今も工場で大切に保管されている目立て機
しかし、太平洋戦争の勃発と時を同じくして、創業者は病死。跡を継いだのは建造の妻、ヨシでした。
五人の子供を抱えながらも、夫の志を継ぎ、事業を発展させていきます。
ものづくりの心を支えた逆境の中での感謝の思い
富山大空襲で工場が全焼という窮地に立たされながらも、不撓不屈の精神でさらに大きな工場を建て、会社を立て直した二代目社長。
当時の女性にしては背丈もあり、気丈なスーパーウーマンだったと語り継がれていますが、そんな 二代目のくちぐせは「ありがたや、ありがたや」という感謝の気持ちでした。
どんな不幸な環境でも逆境にめげず、かえってありがたいと感謝の気持ちで受け止める。
だからこそ、人も時も味方して、事業もますます拡大することができたのでしょう。
その感謝の精神は、現在のNICにもしっかりと受け継がれていています。
創業35年目の決断 ヤスリからアルミニウムへ
終戦を迎えた戦後の日本は、文字通り激動の時代を歩むことになるのですが、戦争中、極めて旺盛だったヤスリの需要も、終戦後から次第に減少していきました。
二代目社長である母から家業を引き継いだのは、現NIC社長の父、西川健二は、変化の激しい世の中の動きを冷静に見極め、ついにヤスリの生産を中止します。
時は昭和37年(1962)、西川鑢(やすり)製作所創業から35年目の決断でした。
これからはアルミの時代だ!
「厳しい状況だからこそ、それをチャンスにすること」
祖母・ヨシの思想を原点に、三代目社長・健二の決断によって、ヤスリからアルミニウムへとシフトしていきます。
そのきっかけになったのは、1968(昭和43)年、「第一回日本自動化視察団」のメンバーとしてアメリカボーイング社を訪問したときのことでした。
ジャンボジェットの外装はもちろん、機内にもふんだんにアルミニウムが使われていました。
鉄より軽いアルミニウムを使うことで、 あの大きなジャンボジェット機の軽量化を実現し、燃費もよくなっている−−−−
その事実を目の当たりにしたとき、大きな衝撃を受けると同時に、アルミの工業化がはじまるとことを確信したのです。
これからはアルミの時代だ!
その予見は現実のものとなり、アルミの工業化が始まっていきました。
アルミづくりに適した地の利を生かして
欧米の近代的自動化技術の必要性を痛感し、アルミニウムの可能性とともに歩む日々がはじまりました。
アルミを作るためには電力を大量に消費するのですが、幸いにも立山連峰の豊富な水がある富山は、アルミの生産にとても適していました。
この恵まれた土地環境や、人の「真面目さ」と「勤勉さ」があれば必ず危機は乗り越えられるはず・・・
豊富な水と豊かな自然に囲まれた富山は、アルミ生産地としてとても適しているのです
そうして、従来の重たい鉄で作られた搬送用の機械をアルミで軽量化し、なおかつ「レゴブロック」の様に簡単に組立られるような商品を「作るぞ!」「やるぞっ!」と決意し
1985年4月にエヌアイシ・オートテックが誕生したのでした。