おーっ!とテック物語【第20回】アジアヘ羽ばたくNICの技術力

公開日時:2016/05/24

前号までのお話


NICにとって「DVD元年」となった平成16年(2004年)、その原動力となったのが、2000年に発売された「DVDも見られるポータブルゲーム機」の登場でした。この画期的なデバイスの登場により、一気にゲーム人口が増加し、DVD需要も急上昇していきます。

そんな時代の流れに後押しされ、NICの装置部門にも新しい波が押し寄せ、DVDディスクの制作・組立装置を手がけることになります。NICの開発チームは持ち前の「ものづくり魂」を発揮し、画期的な装置を作りあげ、その功績により高品質のDVDの大量生産体勢が整い、次々とヒット作が市場に並ぶようになったのです。

日本のDVD市場、いえ、日本のエンターテイメント界を陰ながら支えていったNICの技術力。ますますその活躍の場を広げていくことになるのですが・・・

 

 

クリーンブース事業に吹いた新たな風


次々とクリーンヒットを飛ばすゲームソフトやDVD化された名作映画に支えられ、日本のエンターテイメント界が活気に満ちあふれていた頃、NICのクリーンブース事業にも、また新たな光が当たり始めます。

折しも当時はテレビ放送もアナログからデジタルへの移行期。地上デジタル放送が開始された時期と重なり、大型液晶テレビやDVDレコーダーが驚くべきスピードで各家庭に普及していきました。

各メーカーが競うように次々と高品質な液晶テレビ・モニター等を生み出し、新しい技術であるプラズマ液晶テレビが登場したのも、ちょうどこの頃でした。

市場のにニーズが膨らむということは、それだけ強靭な生産体制が求められるということ。NICの液晶パネル製造設備用のクリーンブースに、多くの注目が集まっていったのです。

今までも様々な用途のグリーンブースの製作に携わってきたNICでしたが、この頃の「大型液晶パネルの製造ラインの大きさ」には、ある種の衝撃を受けたといいます。

大きなモノを作り出すには、とてつもなく大きな製造ラインが必要なんだ・・・

頭ではわかっていても、実際に目の当たりにした桁外れのスケールに、最初は圧倒されながらも、大物を扱うノウハウと心構えを培っていったのです。

 

一路、アジアへ!


その後、液晶パネル製造用のグリーンブースの受注量は右肩上がりに増えて行き、2005年にはクリーンブース事業始まって以来の爆発的ヒットを迎えます。
そのきっかけとなったのが、海外市場への対応でした。

当時の大型液晶テレビ人気は、アジア各国にも火がつき、お隣韓国や台湾でも、売れ筋大ヒット商品となっていました。そのニーズをいち早くキャッチしたNIC。高い技術力はそのままに、まずは韓国市場に向けての製品づくりに着手します。

拡大・成長する海外マーケットに素早く対応できたのも、日頃から立てていたアンテナの高さと、どんなものでも対応できる柔軟な製造体勢と技術力の高さがあったからに他なりません。韓国市場への対応も、実にNICらしいものでした。液晶パネル製造のためのクリーンブースをいったん日本国内ですべて組立て、動作チェックを行います。それをバラバラに解体してコンテナに積み込み、一路韓国へ。現地で再び組立てるといったものでした。一見不効率にも思える方法ですが、急がば回れの精神で、これがもっとも確実で素早く対応できる方法だったのです。

その甲斐あって、韓国で順調に業績を伸ばし、続いて台湾市場への対応に乗り出します。台湾でも大いなるニーズがあることは確かな事実。しかし、ここで思わぬ「障壁」が現れてしまったのです。

 

突然のピンチ! 揺らぐ台湾進出


それは「台湾国内で作ったモノでなければ受注はできない」という厳しい契約条件でした。

韓国での成功事例もあり、台湾でも「「日本で作り、台湾で組立て」というスタイルで行こうと考えていたNICは、思いっきり出鼻をくじかれた形になってしまったのです。

さぁ、困った。しかし、いったん目標に決めたからには、なんとしてでもやり遂げるのが、NICのものづくり魂です。乗り越えられない壁などない。台湾では我々の技術を待っている人がたくさんいるのだから・・・

そう信じて、パートナーになってくれそうな台湾企業を四方手を尽くして探し始めました。しかし、なかなか思うようには行きません。いいところまで交渉が進んでも、白紙に戻ってしまう・・・そんなことが繰り返され、「打つ手無しか」「もうダメかも・・・」そんな弱気な空気が漂い始めた頃、ふと一人のメンバーの脳裏に、ある懐かしい人物の顔が浮かんだのです。台湾事情にも精通している方で、もしかしたら力になってくれるかもしれれない。

とはいうものの、もう数年、連絡を取っていない。
我々のことを覚えていてくれるだろうか?
急なお願いを聞き入れてくれるのだろうか?・・・

一抹の不安を抱きながらも、背水の陣を敷く思いで連絡をとってみたのです。

その懐かしい人物とは、NICのクリーンブース事業がニック・セイコー・マイスナー・ヴゥルスト株式会社だった頃に大変お世話になった方でした。

久しぶりに聞いた受話器の向こうの声は、相変わらず明るく力強いものでした。
突然の電話にも関わらず、快く話を聞いてくれてたことに、どんなに感謝したことか。

これをきっかけに驚くほど順調にことが運び、トントン拍子で台湾でのクリーンブース製造環境が整っていきます。一時は不可能にも思えた契約条件も無事クリアすることができ、待望の台湾マーケットへと飛び出していきました。

人生にはひとつもムダがないと言います。そして、人は必要な時に、必要な人と必ず巡り会えるようになっているとも言われています。そんな人生の不思議を肌で感じることができた貴重な経験は、今も鮮明に焼き付いています。

台湾地図
台湾の地図

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当時の台湾工場の様子

 

営業マンの必須アイテム?!


この頃、海外向けの設備製造も好調で、アメリカ(北米)や中国など、海外出張が極端に増えた時期でもありました。今まで個人の旅行ですら海外に行ったことのない社員にも、いきなり海外出張の辞令が出る程の忙しさ。当時の営業マンにとって、一にも二にも「パスポート」が必須アイテムとなっていました。

たとえば、ある営業マンは、外回りの営業中に「トラブル発生!現地へ飛べ!」の連絡が入り、そのまま成田へ直行。着替えも持たずに飛行機に飛び乗り、台湾の工場へ向かった・・・なんてことも一度や二度ではなかったと言います。

なにしろ急なことなので、現金も持っていなければ、当然着替えもありません。当時は今のようにATMがたくさんあるわけでも、手頃な値段のファストファッションの店もありません。着替えが手に入るのは、空港内にあるブランドショップくらいで、下着類を買ったら驚く程高くついたーーーなんていう笑い話(?)がいくつも残っています。

その多忙ぶりは中途採用にも反映されていました。面接時には必ず「パスポートは持っていますか?」と聞き、採用して最初の任務が自分のパスポートを取得することだった社員もいたほどです。また、実力があり即戦力になる人材は、採用して1週間ほどで、海外出張の任務が舞い込む社員もおりました。家族はもちろん、本人も相当驚いていたようです。

MS251_japanpassport500

何もかもが初めてのことだらけ。まさに手探りの状態でしたが、スピーディーで活気に満ちあふれていた時期でもありました。
こちらも一生懸命。迎えてくれる現地の方も一生懸命。エネルギーとエネルギーの全力のぶつかりあいが、素晴らしいパートナーシップを築き上げたのです。

 

<つづく>

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